青のグロスは誰のもの



「すみません、お先に失礼します。」

カトウさんがそう言って席を立ち、みんな「はーい」「お疲れー」と返すも、誰も顔を上げていない。

かくいう私も、そうした一人だ。


だって、ただでさえ手が足りてないのに、その原因になってる人にまで愛想良くなんてしていられない。

今年育児のために時短勤務になった女子社員は、うちの部だけで三人いる。


みんなに負担かかってるって、気付けないもんかね。


アクツさんがこぼしたところに、それマタハラですよーとサトウさんがすかさずつっこむ。

しかしこれはサトウさん本人の優しさから出た発言ではなく、「女が味方してあげないと」という社会の義務みたいなものから出たものだ。

サトウさん本人も、本当は舌打ちのひとつでもしてやりたい気分なのだろう。

残業ばかりで合コンに行けないと嘆く彼女は、とうとう二〇〇五年入社唯一の独身になってしまったらしい。

「あぁそっか、じゃあ『妊娠中、旦那の欲求不満は大丈夫だった? 』っていうのもマタハラ? 」

「それはセクハラぁ。」

アクツさんは、他の人がそうしていたら怒るくせに、スマホをいじりながらあぁそっか、と鼻を鳴らして笑った。


そうやって聞く体なら何言っても許されると思ってんじゃねぇぞと思わず横から口を挟みそうになったけど、こういうとき、入社三年目の私はただおとなしくしていることしか出来ない。

あと五年もすれば、私もカトウかサトウどちらかの立場になるのだ。

下手なことは言えない。

お茶入れてきます、と、こっそり給湯室に逃げた。



膝丈のフレアスカートは、誰からも嫌味を言われないので着ていて楽だ。

いつの間にか機能的なズボンしか履かなくなってしまったカトウさんや、女の私でさえ目のやり場に困るようなタイトスカートを履いてくるサトウさん。

私たちは、何を着るのも自由なはずなのに、いつも何かに着せられている。

「社会人になって何が嫌って、好きな服着られないのが一番無理」と学生時代の友人に言われたとき、私は彼女の気持ちがわからなかった。

むしろ、銀行窓口の制服のようなものが皆にあればいいのにと思っていたくらいだった。


服に興味がないのは、女にとってかなりの重罪だということに、十代のころからなんとなく気づいていた。

どんなに美人でも、服がみすぼらしければバカにされるし、顔が醜ければいじめられる要素が増えるだけだ。

だから私は、自分の好きな服を買うなんていう高度な発想は捨てて、「誰にも不快感を与えない服」を買うようになった。

アイロンをかけなくても皺にならないブラウスと、膝丈のスカート。

誰からも貶されない代わりに、誰からも褒められない服。

初めは楽で良いなと思っていたけれど、ずっと着ていると透明人間になったような気がしてくる。


「ハセガワさんってぇ、なんか趣味とかあるんですか?」

自分のマグカップにお湯を注いでいたら、給湯室の先客に話しかけられた。

今年事務職で入ってきた愛子ちゃんは、制服のスカートを少しだけ規定より短くしているので、サトウさんから目をつけられている。この前どうしてスカートを直さないのと聞いたら、この丈が一番脚がきれいに見えるんです、と言われた。

「んー特にないなぁ。昔はよくライブとか行ってたけど。今は休みの日はずっと寝てる。」

「え~そうなんですか! 私ビールの売り子やってた時、一回だけそういうの行ったことありますけど、ハセガワさんがそういうとこに行ってたの超意外です~、もう興味ないんですか?」

私はそのとき、自分が最後に行った夏フェスを思い出した。

ソーダ味の芝と、泡の消えたビール。

「いや、まぁそれも、当時付き合ってた人の趣味に合わせて行ってた感じだから……。」

「あ~なんか、それなら分かります。ハセガワさんってぇ、男の人に合わせてあげそうですもんねぇ。」

あ、もちろんいい意味で、ですけど! と、私の顔を見て、愛子は慌てて付け加えた。

そしてお先に失礼しまーすと、そそくさとトイレから出ていった。


洗面台には、透明な水色の、キラキラ光るグロスが忘れられていた。



「ただいま」

西荻窪駅から徒歩2分のところに、私とネジの家はある。

昨年SEになったキドからは、今日も残業で遅くなると、さっき携帯に通知が来ていた。

手を洗って、今朝作った味噌汁に火をかける。

流し台に目をやると、朝ごはんの後の茶碗や皿が置きっ放しになっている。


水に浸しといてって言ったのに。


米と卵がカピカピにくっついているから、洗うのがめんどくさい。

3秒蛇口をひねることが、そんなに難しいこと?

先週このことで喧嘩したばかりなのに、もう同じことをされるとすごく腹が立つ。

キドは私の話を本当に聞いていない。

米を洗って、炊飯器のスイッチを押す。

冷凍庫から塩ジャケを取り出し、グリルに載せてタイマーを魚マークに合わせる。


今日は、私の25回目の誕生日だった。



朝起きると、枕元に紙が置かれていた。

「誕生日祝えなくてごめん。週末にプレゼント買いに行ってくる! 」と書いてある。

こういうところはマメだなぁと、いつも感心する。


顔を洗って鏡台の前に座り、化粧ポーチを開くと、愛子の忘れ物を預かったままなことに気が付いた。

昨日はタイミングが合わずに、返しそびれてしまったのだ。

これが発売されてすぐに話題になって、近くの百貨店で品切れが続いているものだということは、そういう情報に疎い私でも知っている。

手の上の水色は朝の光に照らされて、きれいな虹を描きながら、堂々と透き通っていた。


暫く目の前の青を眺めていたら、少し使ってみたいと思ってしまった。


銀色のキャップを静かに回すと、高価な化粧品ならではのいい香りがした。

震える手でチップを唇にのせる。


百貨店は売り場のお姉さんが怖くて近寄れず、薬局でしか化粧品を買ったことがなかった。

だから流行りの「デパコス」を使うなんて初めてで、胸が躍った。


塗り終わって、あらためて鏡を見る。

出来上がった唇は、恐ろしいくらい他の顔のパーツと乖離していた。地味な目、低い鼻、そして自信たっぷりに輝くくちびる。


全然、似合っていなかった。



週末、キドはいいプレゼントが買えたと、上機嫌で帰ってきた。

何だと思う? となぜかしつこく聞いてきたので、私はシチューを煮込みながら、え~何かな~? と、考えているふりをした。

男の人って、なんで料理中に甘えてくるんだろう。

まるで、そうするのが礼儀かのように。


夕食を食べ終わり、ネジはいそいそと買ってきたものを取り出した。

「絶対喜んでくれると思うんだよね~」

伊勢丹の紙袋から、中身を取り出す。

そこには、水色に透き通るグロスが入っていた。

「会社の女の子にさぁ、意見を聞いたわけよ。今何が女の子に人気なのって。そしたらこれ勧められたよ。これで手持ちの口紅の色を変えられるんでしょ? よくわかんないけど。」

男の人って、口に塗るものを全部口紅って言葉で片付けるから愛おしい。

普通のピンク色のリップに重ねると、透明感のあるニュアンスが演出できる、という評判で、このグロスは有名になった。


でも、もうそんなことはどうでもよかった。

「なんでわかんないの。」

「え?」

絶対に今言うことじゃないのはわかってる。少なくとも、彼氏に誕生日を祝ってもらっている今ではないということは。

「なに、どうしたの?」

「私がこういうの似合わないって、キドが一番知ってるはずじゃん。」

朝、部会資料のコピーをしていた愛子に声をかけた。 

「私だってはづきちゃんじゃなくておんぷちゃんがやりたかった。

セーラージュピターじゃなくてビーナスがやりたかった。

しまじろうじゃなくてみみりんのビスケットが欲しかった。

教室で友達とファッション誌を読みたかった。

朝の学校のトイレでお化粧したかった。

体育祭でお揃いの髪型にしてたくさん写真を撮りたかった。

それを全部我慢してきたの。なんでだと思う?」

昨日、これお手洗いに忘れたでしょ。預かっておいたよ。

「仲間外れにされたくないからだよ。

かわいくない私達は、いつもそうなる可能性があるの。

かわいい子がもっとかわいくなる努力をしてる隣りで、私達は一生懸命ハブられない努力をしてるの」

あ!すみませんありがとうございます!

なくしちゃったかと思ってすごいテンション下がってたんですよ〜

「みんなの前でかわいくなろうとしてもいい女なんて、ほんの一握りなの。

流行りのグロスがほんとに似合う女なんて、どうせ何つけてもかわいい子なの」

あれ、カナさんも同じの持ってたんですね?

「みんなのためのかわいいものなんて、ほんとはどこにもないの」

つけたままだった唇の艶は、一瞬で愛子に気付かれてしまった。

たぶん愛子は、ほんとにわたしが同じものを持っていて、今日たまたまつけてきたんだと思ったのだ。

それでも、本当のことを見透かされたような気がして、とても、とても恥ずかしくて、

「若いうちが華っていうけど、華でいられるならいいじゃない。

華の時期があるだけいいじゃない。

私は、いつになったら華になれるの。

いつになったら、本当にやりたいことをしても、許されるようになるの。」


言ってることがむちゃくちゃなのはわかっていた。

キドにぶつけることがいかに不毛で間違っていることなのかもわかっていた。

それでも途中で止めることができなかった。キドはずっと黙っていた。

黙って机の上の青を見つめていた。



次の日出社すると、愛子から近々地元のお見合い相手と結婚することの報告があった。

何故だか素直におめでとうと思った。