君とあの子と彼女と夏フェス②
2.愛子
母親と娘って、世界で一番難しい人間関係だ。
夏はビールが良く売れる。
今日は野外のイベントだからか、特にそうだ。
客がイケメンだろうがおじさんだろうが、等しく最上級の愛想でもてなすのが、わたしのルール。
こちらが笑顔でビールをわたせば、あちらも笑顔で受け取ってくれる。
この仕事のきつさが報われる瞬間のひとつだ。
どうしても男性客が多くなる中、さっきめずらしくひとりで買いに来た女の子がいた。
「女の子が朝からビールなんて」って人もいるかもしれないけど。
わたしはそういうの、かっこいいと思う。
*
わたしの母は、自分の夢はあなたに託したと言って、わたしにバレエやら英会話やらを習わせた。
母親譲りの不器用さで、プリエもTHの発音もわたしにはとても難しくて、どちらもすぐに嫌になってしまった。
それでも何年かはのらりくらり続けていた。
先生やまわりの大人みんなが、わたしに優しかったから。
そしてそれはたぶん、わたしがかわいいから。
*
母は、わたしをとてもかわいがった。
だから何をしても怒られなかったし、何をしても褒められた。
就活がうまくいかなくて、大学時代にバイトでやっていたビールの売り子を続けることになった時も、わたしの頭をなでて褒めてくれた。
「それは愛子ちゃんだから出来る、立派なお仕事なのよ。かわいい女の子にビールを売ってもらうって、とっても嬉しいんだから。」
*
遠くの方で歓声が聞こえた。
どこかの演奏がちょうど始まったようだ。
屋台の周りにたむろしていた人たちが、なんとなく移動し始める。
愛子ちゃんも気になるとこあったら見てきていいよ、と言われてとりあえず出て来たけど、どこにも興味がない。
仕方ないので適当に歩いたところにあった芝生に座りこんだ。
犬にしてくれと何回も叫んでいる曲が聞こえる。
犬、かぁ。
*
ねぇ、今松下から電話で告られたんだけど。
ココアはカロリーが怖いから、わたしはもう何年も飲んでいないけど、季子はいつも注文していた。
自分の分のジャスミンティーは自分で蒸らしてから飲むタイプだったので、まだ注がないで待っていた。
え、いま、なんて?
松下にとって季子は初めてできた彼女で、一年前、二人が別れた時は(もちろん季子がフッた)松下は目も当てられないほど落ちこんでいた。
それから一年間、季子のことをずっと好きだったんだとしたら
じゃあ、わたしは、一体なんだったの。
やっと口をつけたジャスミンティーは、抽出しすぎてあまりに苦かった。
*
渋谷駅から歩いて2分。
雑居ビルから突き出した看板が見えてきた。
新田レディースクリニック、と書かれた真新しい文字の隣には、微笑んでいる女の子の絵がある。
パッと見てなんの病院かわからないような「配慮」がされている、と思った。
エレベーターが来るのを待っていると、後ろに同い年くらいの女性がひとり、並んだ。
エレベーターが来る。
わたしは5階のボタンを押す。
後ろから手が伸び、4階のボタンが押された。
ネイルサロンのある階だ。
降りる時に、少し顔を見られた気がした。
個室に通されると、白衣を着た女がこちらを見て座っていた。
「お座りください。」
アフターピルには3種類あるという。
高いのと、普通のと、安いの。
わたしは値段が一番安くて、副作用の起こる可能性が一番高い物を選んだ。
「ひとつしかありません。落とさないように。」
終始事務的な態度だった。
感情が全くない対応は、毎日この病院で患者が何を求めてきているのかを感じてきた結果なのだろう。
もう同じものを飲むことがないように、とでもいうような眼。
外に出ると、まだ明るかった。
ここに入る前と、全く同じ世界に帰ってきたと思った。
いま、自分に起こったことは、この町ではなにも珍しくないことなのだと、思った。
*
いつのまにか犬の歌は終わっていて、みんな移動していた。
わたしもそろそろ店に戻ろう。
とつぜん、頭が痛い。吐き気がする。副作用が始まったみたいだ。
気持ち悪い、けど、薬がちゃんと効いたってことだから、妊娠は免れたんだ。
わたしは心底安心した。
いつもなら憂鬱な月経が、こんなに待ち遠しかったことはない。
子どもができるかもしれないことを、十代のころからわたしたちは平気な顔をしながら繰り返している。
日常と非日常なんてこんなにもすぐ近くにあるってこと、このときはじめて実感したけど、つぶやいてみたらびっくりするほどありふれたセリフだった。
今しか価値のない笑顔かもしれない。
あと何年かすれば、笑うなババア、と言われるかもしれない。
それを分かっていないまま生きてるかわいい子なんて、いるのだろうか?
無駄なことかもしれなくても
幸せになれるわけじゃないとしても
わたしは意地でも毎日デトックスウォーターをつくるしホットヨガをするしスチーマーを顔に当てる。
ココアは飲まない。絶対に。
そうやってきた。そうやっていくんだ。
立ち上がって振り返
ると、ちょうど歩いてきた女にぶつかってしまった。
「あ、ごめんなさい。」
「い、いえ。」
太った女だった。
びくびく歩く様子は、人を苛立たせるものがあった。
こういう時、あの病院を思い出す。
今にも取り壊されそうな雑居ビル。不自然なくらい健全な看板。そして、感情のない女医。
ああ。あの女、アイライン浮いてたな。