視線

「佐倉は、これだろ」

竹田がにやにやしながら見せてきたのは、ジンギスカン味と書かれたキャラメルだった。

「さっきバクバク食ってたもんな」

「いや、ジンギスカンは美味しかったけど、キャラメルにする必要ある?てかいらないし」

 

修学旅行2日目の夜、ホテルの土産売場は、同じ中学の生徒で一杯になっている。

親や兄弟、部活の後輩の顔を思い浮かべながら、皆思い思いに商品を手に取る。

「竹田は、なにか買っていかないの」

「妹にマリモ頼まれてたから、それだけ買う。佐倉は?」

「かなみに買ってく。旅行来られなかったから」

 

この旅行の班決めで、竹田と同じ班になると決まった時、私は口角が上がってしまいそうになるのを必死にこらえた。

かなみが、良かったね、と小声で囁くから、赤くなりかけていた耳がさらに熱を帯びる。

今日は一緒にオルゴールを作る予定だったのに、かなみは熱を出してこの旅行を欠席してしまった。

「あー、あいつ残念だったよな。連絡取った?」

「うん。もう熱も下がって、家で退屈してるみたい。今何してるか実況しろってうるさい」

「しょうがねぇな、俺も今井に、これ買ってやるよ」

竹田がさっきのジンギスカンキャラメルを、カタカタ振る。

「だからそれ絶対美味しくないって」

「あーでも今井はこっちかな。これ、夕張メロン

私は、自分の顔が一瞬こわばるのを感じた。

「なんで?」

「だってあいつ、メロン味好きじゃん。いつも昼休みメロンジュース飲んでるし」

「そうだけど」

そうだけどなんで、と頭の中で繰り返す。

なんで竹田は、かなみが好きなジュースを知ってるの。

 

「…わたしがまとめて買ってくる」

竹田の手からキャラメルの箱を取ってレジに並ぶ。

ポケットのスマホが鳴った。

告白どうだった?と、かなみからメッセージが届いていた。

青のグロスは誰のもの



「すみません、お先に失礼します。」

カトウさんがそう言って席を立ち、みんな「はーい」「お疲れー」と返すも、誰も顔を上げていない。

かくいう私も、そうした一人だ。


だって、ただでさえ手が足りてないのに、その原因になってる人にまで愛想良くなんてしていられない。

今年育児のために時短勤務になった女子社員は、うちの部だけで三人いる。


みんなに負担かかってるって、気付けないもんかね。


アクツさんがこぼしたところに、それマタハラですよーとサトウさんがすかさずつっこむ。

しかしこれはサトウさん本人の優しさから出た発言ではなく、「女が味方してあげないと」という社会の義務みたいなものから出たものだ。

サトウさん本人も、本当は舌打ちのひとつでもしてやりたい気分なのだろう。

残業ばかりで合コンに行けないと嘆く彼女は、とうとう二〇〇五年入社唯一の独身になってしまったらしい。

「あぁそっか、じゃあ『妊娠中、旦那の欲求不満は大丈夫だった? 』っていうのもマタハラ? 」

「それはセクハラぁ。」

アクツさんは、他の人がそうしていたら怒るくせに、スマホをいじりながらあぁそっか、と鼻を鳴らして笑った。


そうやって聞く体なら何言っても許されると思ってんじゃねぇぞと思わず横から口を挟みそうになったけど、こういうとき、入社三年目の私はただおとなしくしていることしか出来ない。

あと五年もすれば、私もカトウかサトウどちらかの立場になるのだ。

下手なことは言えない。

お茶入れてきます、と、こっそり給湯室に逃げた。



膝丈のフレアスカートは、誰からも嫌味を言われないので着ていて楽だ。

いつの間にか機能的なズボンしか履かなくなってしまったカトウさんや、女の私でさえ目のやり場に困るようなタイトスカートを履いてくるサトウさん。

私たちは、何を着るのも自由なはずなのに、いつも何かに着せられている。

「社会人になって何が嫌って、好きな服着られないのが一番無理」と学生時代の友人に言われたとき、私は彼女の気持ちがわからなかった。

むしろ、銀行窓口の制服のようなものが皆にあればいいのにと思っていたくらいだった。


服に興味がないのは、女にとってかなりの重罪だということに、十代のころからなんとなく気づいていた。

どんなに美人でも、服がみすぼらしければバカにされるし、顔が醜ければいじめられる要素が増えるだけだ。

だから私は、自分の好きな服を買うなんていう高度な発想は捨てて、「誰にも不快感を与えない服」を買うようになった。

アイロンをかけなくても皺にならないブラウスと、膝丈のスカート。

誰からも貶されない代わりに、誰からも褒められない服。

初めは楽で良いなと思っていたけれど、ずっと着ていると透明人間になったような気がしてくる。


「ハセガワさんってぇ、なんか趣味とかあるんですか?」

自分のマグカップにお湯を注いでいたら、給湯室の先客に話しかけられた。

今年事務職で入ってきた愛子ちゃんは、制服のスカートを少しだけ規定より短くしているので、サトウさんから目をつけられている。この前どうしてスカートを直さないのと聞いたら、この丈が一番脚がきれいに見えるんです、と言われた。

「んー特にないなぁ。昔はよくライブとか行ってたけど。今は休みの日はずっと寝てる。」

「え~そうなんですか! 私ビールの売り子やってた時、一回だけそういうの行ったことありますけど、ハセガワさんがそういうとこに行ってたの超意外です~、もう興味ないんですか?」

私はそのとき、自分が最後に行った夏フェスを思い出した。

ソーダ味の芝と、泡の消えたビール。

「いや、まぁそれも、当時付き合ってた人の趣味に合わせて行ってた感じだから……。」

「あ~なんか、それなら分かります。ハセガワさんってぇ、男の人に合わせてあげそうですもんねぇ。」

あ、もちろんいい意味で、ですけど! と、私の顔を見て、愛子は慌てて付け加えた。

そしてお先に失礼しまーすと、そそくさとトイレから出ていった。


洗面台には、透明な水色の、キラキラ光るグロスが忘れられていた。



「ただいま」

西荻窪駅から徒歩2分のところに、私とネジの家はある。

昨年SEになったキドからは、今日も残業で遅くなると、さっき携帯に通知が来ていた。

手を洗って、今朝作った味噌汁に火をかける。

流し台に目をやると、朝ごはんの後の茶碗や皿が置きっ放しになっている。


水に浸しといてって言ったのに。


米と卵がカピカピにくっついているから、洗うのがめんどくさい。

3秒蛇口をひねることが、そんなに難しいこと?

先週このことで喧嘩したばかりなのに、もう同じことをされるとすごく腹が立つ。

キドは私の話を本当に聞いていない。

米を洗って、炊飯器のスイッチを押す。

冷凍庫から塩ジャケを取り出し、グリルに載せてタイマーを魚マークに合わせる。


今日は、私の25回目の誕生日だった。



朝起きると、枕元に紙が置かれていた。

「誕生日祝えなくてごめん。週末にプレゼント買いに行ってくる! 」と書いてある。

こういうところはマメだなぁと、いつも感心する。


顔を洗って鏡台の前に座り、化粧ポーチを開くと、愛子の忘れ物を預かったままなことに気が付いた。

昨日はタイミングが合わずに、返しそびれてしまったのだ。

これが発売されてすぐに話題になって、近くの百貨店で品切れが続いているものだということは、そういう情報に疎い私でも知っている。

手の上の水色は朝の光に照らされて、きれいな虹を描きながら、堂々と透き通っていた。


暫く目の前の青を眺めていたら、少し使ってみたいと思ってしまった。


銀色のキャップを静かに回すと、高価な化粧品ならではのいい香りがした。

震える手でチップを唇にのせる。


百貨店は売り場のお姉さんが怖くて近寄れず、薬局でしか化粧品を買ったことがなかった。

だから流行りの「デパコス」を使うなんて初めてで、胸が躍った。


塗り終わって、あらためて鏡を見る。

出来上がった唇は、恐ろしいくらい他の顔のパーツと乖離していた。地味な目、低い鼻、そして自信たっぷりに輝くくちびる。


全然、似合っていなかった。



週末、キドはいいプレゼントが買えたと、上機嫌で帰ってきた。

何だと思う? となぜかしつこく聞いてきたので、私はシチューを煮込みながら、え~何かな~? と、考えているふりをした。

男の人って、なんで料理中に甘えてくるんだろう。

まるで、そうするのが礼儀かのように。


夕食を食べ終わり、ネジはいそいそと買ってきたものを取り出した。

「絶対喜んでくれると思うんだよね~」

伊勢丹の紙袋から、中身を取り出す。

そこには、水色に透き通るグロスが入っていた。

「会社の女の子にさぁ、意見を聞いたわけよ。今何が女の子に人気なのって。そしたらこれ勧められたよ。これで手持ちの口紅の色を変えられるんでしょ? よくわかんないけど。」

男の人って、口に塗るものを全部口紅って言葉で片付けるから愛おしい。

普通のピンク色のリップに重ねると、透明感のあるニュアンスが演出できる、という評判で、このグロスは有名になった。


でも、もうそんなことはどうでもよかった。

「なんでわかんないの。」

「え?」

絶対に今言うことじゃないのはわかってる。少なくとも、彼氏に誕生日を祝ってもらっている今ではないということは。

「なに、どうしたの?」

「私がこういうの似合わないって、キドが一番知ってるはずじゃん。」

朝、部会資料のコピーをしていた愛子に声をかけた。 

「私だってはづきちゃんじゃなくておんぷちゃんがやりたかった。

セーラージュピターじゃなくてビーナスがやりたかった。

しまじろうじゃなくてみみりんのビスケットが欲しかった。

教室で友達とファッション誌を読みたかった。

朝の学校のトイレでお化粧したかった。

体育祭でお揃いの髪型にしてたくさん写真を撮りたかった。

それを全部我慢してきたの。なんでだと思う?」

昨日、これお手洗いに忘れたでしょ。預かっておいたよ。

「仲間外れにされたくないからだよ。

かわいくない私達は、いつもそうなる可能性があるの。

かわいい子がもっとかわいくなる努力をしてる隣りで、私達は一生懸命ハブられない努力をしてるの」

あ!すみませんありがとうございます!

なくしちゃったかと思ってすごいテンション下がってたんですよ〜

「みんなの前でかわいくなろうとしてもいい女なんて、ほんの一握りなの。

流行りのグロスがほんとに似合う女なんて、どうせ何つけてもかわいい子なの」

あれ、カナさんも同じの持ってたんですね?

「みんなのためのかわいいものなんて、ほんとはどこにもないの」

つけたままだった唇の艶は、一瞬で愛子に気付かれてしまった。

たぶん愛子は、ほんとにわたしが同じものを持っていて、今日たまたまつけてきたんだと思ったのだ。

それでも、本当のことを見透かされたような気がして、とても、とても恥ずかしくて、

「若いうちが華っていうけど、華でいられるならいいじゃない。

華の時期があるだけいいじゃない。

私は、いつになったら華になれるの。

いつになったら、本当にやりたいことをしても、許されるようになるの。」


言ってることがむちゃくちゃなのはわかっていた。

キドにぶつけることがいかに不毛で間違っていることなのかもわかっていた。

それでも途中で止めることができなかった。キドはずっと黙っていた。

黙って机の上の青を見つめていた。



次の日出社すると、愛子から近々地元のお見合い相手と結婚することの報告があった。

何故だか素直におめでとうと思った。




私の國

 

私の国では、一人称を「私」にすることを義務付けられている。
みんな生まれてから死ぬまで、自分のことを「私」と呼ぶ。「僕」や「俺」はもちろん、自分の名前で呼んでもいけない。


そのことを疑問に思ったことは何度かあった。

その度に、父や母に何故なのか、いつからなのかを聞いてはみたが、困ったように微笑むだけで、教えてくれなかった。

ただ、破ると何か恐ろしいことが起きるということは、何度も何度も注意された。

 


昨日、私は母におつかいを頼まれたため、スーパーに買い物をしに行った。

店に入ってまず野菜コーナーを見て、次に肉を見た。
スーパーの生鮮食品売り場の配置は、夕飯の献立を考える主婦の導線を意識して考えられていると聞いたことがある。

確かにこれは理にかなっていると思ったが、同時に、自分みたいなのは言われたものを買うだけなので必要のない仕組みだな、とも思った。

レジに並んでいると、二つ前の客のところで少し詰まってしまっていた。

どうやら外国の人らしく、言葉が通じていないようだ。

それを見て、私の一つ前に並んでいたおばさんが小さく舌打ちをした。

一方で私は、この世にあるネジはすべて時計回りに締まっているというのは本当の話なのだろうか、と考えたりしていた。

 


今日、私のクラスに転校生が来た。肌が白く、目は緑色をしている。
私はその子を見て、なんとなく昨日のレジの人を思い出した。
彼女はさらさらの茶色い髪の毛を揺らしながら教室に入ってきた。
「初めまして。僕、マリです。僕の国はいいところです。よろしくね。」
たちまち教室がざわめきに満ちた。

 

あいつ、自分のことを僕って言ったぜ。


「あのね、ここでは自分のことを、「私」と呼ぶと決まっているのよ。」
先生が優しく諭したところ、マリは「構いません。」と笑顔で答えた。


「あなたは構わないかもしれないけど……。」
「僕はちゃんと規則を守っています。」
「守ってないじゃない」
「でも」


先生は彼女の襟ぐりを掴んで、窓から放った。



彼女の国では、一人称を「僕」にすることを義務付けられている。

君とあの子と彼女と夏フェス②

2.愛子

 

母親と娘って、世界で一番難しい人間関係だ。

 

夏はビールが良く売れる。

今日は野外のイベントだからか、特にそうだ。

客がイケメンだろうがおじさんだろうが、等しく最上級の愛想でもてなすのが、わたしのルール。

こちらが笑顔でビールをわたせば、あちらも笑顔で受け取ってくれる。

この仕事のきつさが報われる瞬間のひとつだ。

 

どうしても男性客が多くなる中、さっきめずらしくひとりで買いに来た女の子がいた。

「女の子が朝からビールなんて」って人もいるかもしれないけど。

わたしはそういうの、かっこいいと思う。

 

 

わたしの母は、自分の夢はあなたに託したと言って、わたしにバレエやら英会話やらを習わせた。

母親譲りの不器用さで、プリエもTHの発音もわたしにはとても難しくて、どちらもすぐに嫌になってしまった。

それでも何年かはのらりくらり続けていた。

先生やまわりの大人みんなが、わたしに優しかったから。

そしてそれはたぶん、わたしがかわいいから。

 

 

母は、わたしをとてもかわいがった。

だから何をしても怒られなかったし、何をしても褒められた。

就活がうまくいかなくて、大学時代にバイトでやっていたビールの売り子を続けることになった時も、わたしの頭をなでて褒めてくれた。

「それは愛子ちゃんだから出来る、立派なお仕事なのよ。かわいい女の子にビールを売ってもらうって、とっても嬉しいんだから。」

 

 

遠くの方で歓声が聞こえた。

どこかの演奏がちょうど始まったようだ。

屋台の周りにたむろしていた人たちが、なんとなく移動し始める。

愛子ちゃんも気になるとこあったら見てきていいよ、と言われてとりあえず出て来たけど、どこにも興味がない。

仕方ないので適当に歩いたところにあった芝生に座りこんだ。

犬にしてくれと何回も叫んでいる曲が聞こえる。

 

犬、かぁ。

 

 

ねぇ、今松下から電話で告られたんだけど。

ココアはカロリーが怖いから、わたしはもう何年も飲んでいないけど、季子はいつも注文していた。

自分の分のジャスミンティーは自分で蒸らしてから飲むタイプだったので、まだ注がないで待っていた。

え、いま、なんて?

 

松下にとって季子は初めてできた彼女で、一年前、二人が別れた時は(もちろん季子がフッた)松下は目も当てられないほど落ちこんでいた。

それから一年間、季子のことをずっと好きだったんだとしたら

じゃあ、わたしは、一体なんだったの。

やっと口をつけたジャスミンティーは、抽出しすぎてあまりに苦かった。

 

 

渋谷駅から歩いて2分。

雑居ビルから突き出した看板が見えてきた。

新田レディースクリニック、と書かれた真新しい文字の隣には、微笑んでいる女の子の絵がある。

パッと見てなんの病院かわからないような「配慮」がされている、と思った。

エレベーターが来るのを待っていると、後ろに同い年くらいの女性がひとり、並んだ。

エレベーターが来る。

わたしは5階のボタンを押す。

後ろから手が伸び、4階のボタンが押された。

ネイルサロンのある階だ。

降りる時に、少し顔を見られた気がした。

 

個室に通されると、白衣を着た女がこちらを見て座っていた。

「お座りください。」

アフターピルには3種類あるという。

高いのと、普通のと、安いの。

わたしは値段が一番安くて、副作用の起こる可能性が一番高い物を選んだ。

「ひとつしかありません。落とさないように。」

終始事務的な態度だった。

感情が全くない対応は、毎日この病院で患者が何を求めてきているのかを感じてきた結果なのだろう。

もう同じものを飲むことがないように、とでもいうような眼。

外に出ると、まだ明るかった。

ここに入る前と、全く同じ世界に帰ってきたと思った。

いま、自分に起こったことは、この町ではなにも珍しくないことなのだと、思った。

 

 

いつのまにか犬の歌は終わっていて、みんな移動していた。

わたしもそろそろ店に戻ろう。

とつぜん、頭が痛い。吐き気がする。副作用が始まったみたいだ。

気持ち悪い、けど、薬がちゃんと効いたってことだから、妊娠は免れたんだ。

わたしは心底安心した。

いつもなら憂鬱な月経が、こんなに待ち遠しかったことはない。

子どもができるかもしれないことを、十代のころからわたしたちは平気な顔をしながら繰り返している。

日常と非日常なんてこんなにもすぐ近くにあるってこと、このときはじめて実感したけど、つぶやいてみたらびっくりするほどありふれたセリフだった。

 

今しか価値のない笑顔かもしれない。

あと何年かすれば、笑うなババア、と言われるかもしれない。

それを分かっていないまま生きてるかわいい子なんて、いるのだろうか?

 

無駄なことかもしれなくても

幸せになれるわけじゃないとしても

わたしは意地でも毎日デトックスウォーターをつくるしホットヨガをするしスチーマーを顔に当てる。

ココアは飲まない。絶対に。

そうやってきた。そうやっていくんだ。

 

立ち上がって振り返

ると、ちょうど歩いてきた女にぶつかってしまった。

「あ、ごめんなさい。」

「い、いえ。」

太った女だった。

びくびく歩く様子は、人を苛立たせるものがあった。

こういう時、あの病院を思い出す。

今にも取り壊されそうな雑居ビル。不自然なくらい健全な看板。そして、感情のない女医。

ああ。あの女、アイライン浮いてたな。

 

君とあの子と彼女と夏フェス①

1.カナ



まだ朝の9時だっていうのに、太陽はすでに、本気だ。

普通にコンビニで買えば60円のアイスキャンディーが、いつもよりずっと高い値をつけられているのにすごい勢いで売れていく。

最初のアーティストのライブが始まるまで、あと1時間。

熱気で手から溶け落ちていくソーダ味の液体が芝生に沁みこむのを、私はただぼんやりとみつめていた。

 

「フェス」に行くなんて初めてで、帽子はこの向きがかわいいかなとか、お手拭きとかあった方がいいかなとか、昨日からそわそわしていた。

だけど、そんなことはもうどうでもいい。

男の人と喧嘩したのは、生まれて初めてだった。

 


わたしがいつも好きになるのは、CMや映画の主題歌になっているような有名な曲だ。

というか、テレビとかみてれば自然と耳にするのだから、そうなるのが普通だと思っている。

わたしがそう言うと、涼介はきまって「わかってないなぁ」と言いながら、自分の音楽プレイヤーを見せてくる。

流れてくる音楽に耳を傾ける。

聞いたこともないような名前のバンドばかりのプレイリストを見ながら、こういう人たちのことって、普段どこで知るの、と聞くと、涼介は毎回嬉しそうに鼻を膨らませて教えてくれたけど、もう忘れてしまった。


自分のセンスに自信がある人って、どうしてそれが万国共通のものだと思っているんだろう。

「センスがいい」って、誰がどのように決めているんだろう。

今朝、涼介が前に好きだと言っていたバンドが今回のフェスの一番大きいステージでやることがわかって、良かったね、有名になって、と言ったら、「もうこいつらのことは好きじゃない」と言われた。

「こいつら、有名になってから、変わったよ。音のディティールに力強さが感じられなくなった。」

「そうなんだ、前は感じられたの。」

「うん。なんていうのかな、やっぱ売れると曲に切迫した雰囲気がなくなるよな。ま、カナには今のほうがいいって思えるだろうし、聴いてみたら?」

「……涼介はさ、みんなが知らないから好きだったんでしょう、そのバンド。」

 

それからはお互いを罵る言葉が止まらなくなって、気づいたらもう涼介はいなかった。



わたしは甘いソーダをたっぷり吸い込んだ芝生から立ち上がって、出店に向かった。

くしゃっとした笑顔のかわいい店員さんから、ビールを受け取る。

いつもより高価な、黄金色。

「こういうとこのビールって美味しくないでしょ。しかも高いのに、よく買うね。」

「こういうとこで飲むから、うまいんだよ。気分料上乗せされてんじゃねぇ?」

わたしの前に買った男の人がそう言いながら飲んでいるものは、なんだか自分が手にしているのとは全然違うものに思えた。

苦い泡の部分が消え始めたビールは、どこか弱々しい。

さっきの店員さん、かわいかったな。こういうとこのビールの売り子って顔選っていうもんな。

わたしもあのくらいかわいかったら、自分の意見をいつもはっきり言えるのかな。


いきなり大音量でギターが鳴った。

父親が演歌歌手で有名なロックバンドが、このフェスの最初のアーティストだ。

ああ、かっこいい。

女の子たちが熱っぽい目でステージをみつめている。

みんなは、かっこいいから、人のことを好きになるの? 

かわいいから、好きになってもらえるの?

わたしは涼介の、何に惹かれたの。


手に持っている携帯が、鈍く震えた。



 

こども



ランドセル似合わないねって、褒め言葉だ。


わたしは、背の順で並ぶときはいつも一番後ろだし、顔も大人っぽいから中学生によく間違えられる。

だから、電車やバスに乗るときはいつも保険証を持ち歩く。

こういう困ったこともたまに起きるけど、実際大人にみられるって、気持ちいい。

社会科見学で工場に行ったとき、一人だけ大人用の白衣とマスクが渡されたときは、なんか大人と対等に扱われた気がして、嬉しかった。



さきちゃんちにはたくさんゲームがあるから、みんなが集まる場所になることが多い。コントローラーは4機までしか使えないから、かわりばんこで遊ぶ。

ゲームの中で自分が使うキャラクターを選ぶときは、わたしはいつも最後に選ぶ。

だって、何を選んでも性能は同じなんだから、なんでもいいじゃない。

そんなわたしを見てさきちゃんママはいつも「理子は大人だね。」って言ってくれる。

でも、大人ってそういうことなのだろうかと、最近考える。



「ねえ、理子縄回してよ。」

杏は女子のグループで1番上の人だから、誰も逆らえない。

わたしは別にそんなに嫌でもなかったし、やってあげた。

穏やかな学校生活をおくるためなら、こんなのどうってことない。

それに、どうせ私は受験で違う中学だ。もうすぐ会わなくなる相手だと思えば、大抵のことは我慢できる。

こういう考えって、大人っぽい。


あ、なんか、大人っぽいって自分で思うの、こどもっぽい。


 *


相澤くんは、地元のサッカー少年団に入っている男の子だった。

そういう子とわたしは普段ほとんど話すことがなかったから、体育の授業帰りに下駄箱で話しかけられて、正直すごくびっくりした。

「お前の指、長えな。」

「え、ああ、そうかな。」

「貸してみ。」

相澤くんがわたしの手をとる。

初めて男の子と手をあわせた2秒間

静電気が、こんなの大人の世界ではどうってことないよって、ちっちゃくばちっとした。

「あ、やっぱ俺のが短い。」

相澤くんは負けたーと笑って、先に教室に戻ってしまった。

 

あの日、他の子より大きいこの手が

今だけ熱を帯びたこの手だけが

どうしようもなくこどもだった。